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どれだけ泣いたか分からない。でも不登校は私を強くしてくれた- 和田さん

こんにちは。
今回は、FUTOUKOU STORYの立ち上げを共に活動してくれている、不登校経験者の和田真優実(わだまゆみ)さんにインタビューしていきたいと思います。
よろしくお願いします!

よろしくお願いします。

まず私の体験を話す前に、私について紹介をしたいと思います。

中学1年生秋にOD(起立性調節障害)の診断を受け、現在は国際基督教大学の4年生です。
大学入学後は競技ダンス、Parliamentary Debate(即興英語弁論部)に入り、弁論の国内/国際大会に出場しました。学校のProgramでカナダ留学、OD患者と元不登校としてさらなる認知のために ミスコンテストにも出場しました。

現在は親元を離れ一人暮らしの大学生活を謳歌しています。また、英語弁論の通信教育事業で勤め、 実際に講師として経験を積み、将来の夢である ”やり直しのできる教育環境構築への貢献”のため”校長先生になる” ことを目指し、現在、英語科教員免許取得、大学院進学に励んでいます。

今の私までの道のりには、OD闘病による悩み、苦しみ、衝突がありました。中学の頃の悲劇のヒロインちっくな私から、今の活躍できる自分を想像することはできませんでした。そしてここまでの道のりは、決して全てが 計算通りではなく、多くの縁と努力によって積み上げられたものです。

今日は、私が一番精神的に追い詰められた中学時代について共有したいと思います。

大学での様々な挑戦、そして将来の夢は目を見張る活躍ですね。中学生の際に不登校になられたきっかけをお聞きしても良いですか?

中学1年生秋にOD(起立性調節障害)の診断を受けました。診断を受ける前から車椅子登校で頑張って登校していた時期もありましたが、意識を失うことが多くなった時から家から出ることを諦めました。

まだ深刻な症状が出るまでの中学1年生の私は、読書が趣味で、毎日吹奏楽部で練習し、勉強も好き/得意な、いわゆる真面目ちゃんでした。

もちろん友達もいて、新しい環境に戸惑いながらも楽しく学校生活を楽しんでいました。

しかし不登校になった1年生から中学3年生の卒業時期まで授業、コンクール、修学旅行などの行事に1度も参加することなく、形式だけの卒業証書を受け取り義務教育を終えました。

その後、通信制学校に通い、学年が下の学習塾の生徒に囲まれながら独学を続け、日本屈指のリベラルアーツ教育の国際基督教大学に現役合格しました。

そうだったんですね。
不登校になられた際は、どのような様子・心境でしたか?

不登校になった事実よりも、闘病をしなければならない事実に私は焦り、悩み、苦しみました。
特に、症状の出始めの頃は、ただ混乱と不安の日々でした。

まだ当時は起立性調節障害の認知がなく、やまない頭痛腹痛、失神などの症状が出ていても病名は不明であった時期がありました。それが2ヶ月ほど続いたため、死に至る病かもしれないと悪い想像ばかりして毎日枕を濡らしながら過ごしていました。

「死」に恐れおののいていた時期があったため、治る病気でもあるODとの闘病中には常に前向きな気持ちが生まれました。私は死なないと。

しかし、これから治る病だからこその辛い悩みもありました。

それは、将来への不安です。

学力と進路、友達と青春、そして親に対する罪悪感と自己肯定感などです。

見た目は健常者そのものなので、
「社会に出るときは健常者と同じように扱われる」という不安もありました。

「私は不登校でなくなったきっかけ」という明確なものがないので、この辺りの葛藤や心情について、今回お話ししたいと思っています。

なるほど。
起立性調節障害と闘病するという事実だけでなく、未来の自分に対する不安もあったということですね。

ではまず、学力と進路について、どのようにお考えだったかお聞きしてもよろしいですか?

学校に行けなくなり2週間程たった後から、自身の学力についての不安が胸を苦しめるようになりました。

休み始めの頃は、しんどい思いして学校行かなくていいんだ!という嬉しい気持ちが強くありました。学校に行かなくても良いことを喜びました。

しかし、時が経つにつれ、周りを少し見渡し、周囲との比較ができるようになってから、自分が置いて行かれている現状に気づきました。

教科書を開いて問題がわからない、「今皆はしているだろう」「単元をみても分からない」、と泣いたり、
定期的に送られるテストをみても解かずに「体調がよくなったらやろう」という言葉でごまかしながら目をそらしていました。

学力コンプレックスは、私の中で強くありました。
健康であった頃は(自分で言うのもなんですが)優等生であったので、勉強ができることに自身の価値を置いていた分、問題が解けない事実に打ちのめされる日々でした。
自己肯定感がズタズタに切り裂かれ、ボロ雑巾のように顔を崩して涙を流していま した。

ある日から突然、気持ちを割り切ったように、今できることからコツコツ進もう、勉強しようという気持ちが生まれました。中学2年生の頃でした。

何に向かって勉強すれば良いか分からない。将来の夢や就きたい仕事も分からない。

だけど、自身の性格を振り返ると「White color Job(頭脳労働)になるであろう」と思ったため、いつ心変わりしても応用できる勉強をしよう!という考えから英語を勉強し始めました。
といっても、まだまだ体調が悪かったので問題集を解くとかではなく、海外ドラマやディズニーを英語音声で視聴することから始めました。

中学3年の秋ごろから本格的に英会話にも通えるようになりました。気持ちと体調が好転したため、その冬から夜間に数学を習いに塾に通い始めました。

しかし、私は塾に通い始めてから、不登校の期間でできた学力ギャップに苦しみました。

2学年下の生徒に囲まれながら授業を受ける日々が始まりました。勉強ができないコンプレックスに苛まれました。

夜の帰り道、人がいないことをいいことに、子供のように泣き問題集を読みながら家まで歩きました。悔しくて悔しくて、自分が情けなくて、負の感情を糧にすると必死に思い、歯を食いしばり汗と涙、何もかも流しながら通い続けました。 

今思うと、通りすがった人はお化けが歩いてると大変驚いたと思います(笑)

その後、小さな目標を立ててクリアしていく成功体験が増え、高校2年生には同学年のクラスで一番最初に問題を解くことができるようになりました。この時の喜びを忘れることはないと思っています。

しかし、この成功に通信制高校の助けがあったか、と聞かれると、、、うーん。



自宅学習が大切であったと考えます。

自分が塾や英会話に通うことができる環境にあったこと、両親の支えには感謝しています。
でも、最近ではYoutubeやMOOC(Massive Online Open Course)という無料での教材コンテンツがたくさんあるので、自宅での学習もやりやすくなっているのかと思っています。

和田さんは、想像を絶する悔しさと闘いながら、「自分ならできる」という自信を胸に毎日努力されていたんですね。

では、2つ目の友人関係についてお話を伺ってもよろしいですか?

私にとって一番辛かったことは、家の前に毎日、女子学生が大きな笑い声を上げながら楽しそうに学校に通っていることでした。

全く知らない違う学校の生徒ですが、その声に対して私は 苛立ちと嫌悪がありました。

今、冷静に考えればおかしな話ですが、実は何度も、学校に電話をして、”そちらの学生が近隣に騒音被害を被らせている”と文句を言いたい気持ちになりました。(実際には電話はしていません!!)その不平不満を母に言えば、馬鹿な行動をするのではないと叱られ、受話器を目の前に、酷く泣いて取り乱していました。私はどうしても、その笑い声を聞きたくなかったからです。

私にとって、彼女たちは取り戻したい生活そのものでした。しかし彼女達に対して出てくる言葉は、「贅沢者で平和ボケした世間知らずの愚かな同世代」。汚い言葉で罵る私が いました。当時の私は私はドラマクイーン、悲劇のヒロイン気取りで、どの立場から物を言っているのかと自分を恥じるばかりです。

しかし、その苛立ちの裏には、受話器のそばを離れることの 出来ない程の羨望がありました。青春への憧れ、あったかもしれない私の日常に対して否定をしなければ、今の自分を”受容”することができませんでした。

当時の私は、そこそこ仲が良かった友達のことは考えることをしませんでした。
「友達のことを考えると、気分がどん底になるだけ」と自覚していたので、学校でのほとんどの友達関係を切り捨て、日常的に避けながら、病気に理解のある親友のみと連絡を取っていました。

学校行事に関しても同様で、知ろうとすることはありませんでした。たまに会う親友との話の中で現れて、「あ、そんなのあったのね。」とあっさりとした反応をしていました。
実際に話したことがある友達のことは好きだったので、批判することができませんでした。なので、目に入ってしまう見知らぬ学生に対して毒を吐いていました。

当時私はSNSなど持っておらず、LINEが出始めた頃だったので、学校に通う友達との縁切りは簡単でした。
現代の子供は、このSNS上の関係がある分、より苦労することが多いのではと思います。

友人には怒りをぶつけられないから、あえて見ず知らずの他者について当たることで、学校生活とのバランスをとっていたのですね。複雑な心境をお話くださりありがとうございます。

最後に、3つ目の自己肯定感についてお話を伺いたいです。

当時は自分のことが大嫌いで自己肯定感が0でした。
時代が時代なら、私は口減らしとして殺すべき存在。少し言葉が汚いですが、汚物製造機、地球汚染体などにも思えました。

その大きな理由として、 24時間ずっと過ごす家の中で私の価値を見いだすことができなかったからです。
体調が悪いと機嫌も悪くなって親に暴言を吐いたり、精神的な攻撃ばかり。親の気持ちを考えることができず、気分が落ち着いた後に自身の言動を後悔することの連続でした。

経済的にも病院代、1日5種の薬代、病院への交通費、日中ずっと家にいる間の光熱費、リハビリ代、車椅子での移動に付き合う労力、看病の間に働けたはずの母の給与、他にも私の見えないところでかかった家族への負担…。
経済的に精神的に身体的に全てにおいて、家庭の負担だと感じていました。

「誇れる娘になりたかった。」

 自分の中で、何を誇れるのかがわからなくなっていたのですね。
しかし、今のまゆみさんは自信が溢れる様子ですが、
いつから自分の自信を取り戻したのですか?

ありがとうございます笑
嘆いてばかりの私に転機が訪れたのは、中学2年生の頃にヘアドネーションの存在を知ったときです。当時、髪を伸ばしていたわけではありませんでしたが、美容院にもいけずただ長く伸びた髪に価値がある(人のためになれる)ことを知りました。そして、中学3年夏に団体へ送りました。
自殺願望や自己肯定感の無さで苦しんでいた私でしたが、髪を伸ばす、鬘製造工場としての役割から自分を認めることができるようになりました。写真は、その様子です。

その頃から、生きること、自立していくこと、学業へのモチベーションが上がり始めました。

今ではヘアドネーションを4回していて、2020年の3月に行った時は55cmも寄付することができました。

2020 ヘアドネーションの様子
中3 Before/After

そうだったのですね。
最後に現在の不登校生へメッセージはありますか?

私のインタビューを振り返ると、どれだけ泣いてるの私…(笑)となりましたが、泣き虫な私でも今は自立した学生として生きてます。

子供の時の苦労は決してマイナスな側面だとは私は思いません。成長期の子供がなる起立性調節障害と不登校は、
私にとって、大人になる過程で程よい負荷のある貴重な経験でした。

自身の気持ちを言葉にできるようになったこと、
小さな喜びをかみしめることができるようになったこと、
感謝の気持ちに素直に伝えられるようになったこと、
自分と向き合い信じること、
痛みへの共感力が高くなったこと、
数え切れないほどの学びが闘病と不登校の中にありました。

この体験記が少しでも闘病生活の上で役に立つことができるのであれば嬉しいです。

最後に皆さんに贈りたい言葉があります。
(ぜひ調べて見てください!)

”What doesn’t kill you makes you stronger”
by Twilight of the Idols Friedrich Nietzsche
✴直訳 あなたを殺さないものはあなたを強くする
★意訳 どんなに辛く苦しいことも、それを乗り越えることで、さらに強くなれる

“The flower that blooms in adversity is the rarest and most beautiful of all.”
by Walt Disney
★逆境に咲く花は、どの花よりも貴重で美しい

”涙の数だけ強くなれるよ、アスファルトに咲く花のように”
by TOMMOROW 岡本真夜 (歌詞)  大好きな歌です!

素敵な言葉をありがとうございました。
和田さんの「悩みつつ、闘いつつ、でも少しずつ強くなっていく姿」に感動しました。現在悩んでいる不登校生にも、少し頑張る勇気が伝わったのではないかと思います。
ありがとうございました。

この記事を書いた人